3月21日(金)・3月22日(土)1泊2日の日程で
広島へ平和体験に行ってきました。
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今年で5年目を迎えるこの企画に、
10組(大人10名、小人5名)の組合員さんが参加してくださいました。
【2日目 被爆体験を聞く 岩国市を巡る】
中国軍管区司令部跡
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2日目は広島城へ移動。
この城の内堀石垣の際に半地下式鉄筋コンクリートの建物
中国軍管区司令部跡があります。
戦中は「中国軍管区司令部防空作戦室」という名称で、
被爆の第一報を伝令した歴史的に重要な建物です。
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そしてこの方がその第一報を伝えた方、岡ヨシエさんです。
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中国軍管司令部後の中に入り、岡さんの被爆体験を聞きました。
岡さんは被爆当時14歳。比治山高等女学校の生徒として学徒動員され、
軍の司令室からの情報を役所や主要軍事施設へ伝令する任務に当たっていました。
原爆が投下された時間は通常なら他の生徒と交代しているはずでした。
しかし、この日はたまたま交代する生徒たちの朝礼が長引き交代が遅れました。
岡さんはじめこの時運よく任務に当たっていた生徒数名が助かったのでした。
窓から差し込んだ爆風で吹き飛ばされ頭部を打ちしばらく気を失いました。
意識が戻り石垣から広島市内を見下ろすと、全てなくなっていて
瀬戸内海まで見渡すことができました。
爆風を受けた兵士や同級生の中には、背中が割れた者、
頭が割れて脳が飛び出している者もありました。
髪がない、服がボロボロ、腕の皮や肉が剥がれた生徒から
「水が欲しい」と言われました。でもあげられる水などなく、ただただ「ごめんね」と
謝ることしかできませんでした。
やがてそこら中に火の手が上がり、炎に包まれ、眼前まで火が迫ってきたときには
死を覚悟しましたが、そのとき突然雨が降り出しました。
火は消え「助かった」と恵みの雨に感謝しました。
しかし後から分かったことでしたが、これが危険な「黒い雨」だったのです。
数日後急性被爆症を発症し、酷い下痢と高熱に悩まされました。
療養して何とか日常生活を送れるようになりましたが、今も血液に障害が残っており、
体調が優れない時は寝込むこともあります。
岩国基地
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その後、移動して山口県の岩国基地へ。
ここはかつて「岩国飛行場」でしたが、戦後アメリカが接収し米軍基地になりました。
以後基地は拡張され、そのたびに沖合に広がる干潟や漁場を失いました。
さらに戦斗機の離発着の妨げになるとして、周辺地域に高さ制限が設定され、
工場の煙突が切断させられるなど、工業発展も阻害されることとなりました。
また、アメリカと日本政府は、岩国市に対し「騒音緩和と安全のため」
として滑走路の沖合移設を持ちかけました。市が合意すると、
米軍基地の更なる沖合拡張が進みましたが・・・
厚木基地から大量の米兵、航空機を岩国基地へ移送し、
基地機能を増強するという案が急浮上しました。
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この是非を問う住民投票が行われ、
87%が反対という結果に。
その後行われた岩国市長選では、厚木から岩国への移駐反対派
議員が当選を果たしました。しかし新市庁舎(上記写真)
建設補助金35億円が凍結され工事は中断。
市長は責任を取って辞職することとなりました。
愛宕山
岩国基地の新滑走路建設に伴い、沖合いを埋め立てるために掘削されたのが、
愛宕山。岩盤が強固なため、ダイナマイト爆破による掘削が行われました。
近隣住民は爆音、爆破による砂埃に悩まされ続けてきたのです。
愛宕山の山頂には愛宕神社があり、桜の季節には近隣住民の憩いの場として
にぎわっていたそうです。しかし、ここも削られ現在は麓に下されてしまいました。
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愛宕山の開発には約2,500億円もの税金が
「思いやり予算」として投じられたといわれています。
愛宕山の住民は開発された跡地に大住宅地が建設されると
説明されていました。しかし、計画が赤字であることを理由に
政府が土地を買い取り、米軍用住宅を建設する計画が進められています。
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地元住民の方々は「愛宕山に米軍住宅はいらない」
と黄色い旗を立て、断固反対の意志を表明しています。
ガイドの大月さんは、
「こうした国と地方の戦いは、どの地域にも起こりうること。
他人事と見て見ぬふりをするのではなく、
国民全体で考えていかなければならない問題です」
とおっしゃいました。
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2日間の日程で開催された平和体験企画。
戦時中、そして現在に至る「平和とは何か」を
深く考えさせられました。
広島には行けなかったけど、平和体験の様子がよく伝わってきました。
本当にいろいろな年代の方が参加され一緒に共通の体験をされたことで、特に若い方には他では得難い貴重な体験となったのではないでしょうか。
岩国基地の現在の問題などは全く知らなかったです。